アンビリバボー!!

 昨日のTV「奇跡体験!アンビリバボー」観ましたか?私はこの番組で“激”感動しました!
 全身麻痺の息子を車イスに乗せてフルマラソンを2時間40分ですよ!!それだけではない、息子と共にトライアスロンも走破してしまったと言うからもうスゲーとしか言いようがない。
 そして、現在に至るまでの父と子のストーリーがまたアンビリバボーなのである。

CAN やればできる

 今から45年前、アメリカ空軍施設に勤務していたディック・ホイトは妻ジュディと結婚し、大きな幸せの中、1962年1月には男の子が誕生した。
 ところが出産から2時間経っても赤ちゃんには会わせてもらえなかった。そこへ医師から、産まれた赤ちゃんが全身マヒという事実を知らされた。リックと名付けられたその赤ちゃんは、出産時にへその緒が首に巻き付いたため脳を損傷し、手足を自由に動かすことができなくなったのだ。医師は、一生知能も働かず言葉も話せないだろうその子を専門の施設に入れることを勧めた。しかしディックはジュディに、普通の子と同じように育てよう、自分たちが諦めたらこの子に明日はない、と言った。
 生後9ヶ月でリックは退院し自宅に戻った。ディックは息子に、乗り越えられないハンディではない、みんなでチャレンジしよう、と声をかけた。
 だが、現実は厳しかった。リックは意識はあるものの声が出ない。手足の自由が効かず、物を掴むことも歩くこともできなかった。

 知的障害の可能性が高く、耳が聞こえているかもわからなかった。それでも両親はリックに話しかけ続けた。だがある日、ディックがリックの前を通った時、目で追いかけていることにジュディは気づいた。また、コップが落ちた音に驚いて泣き顔を見せた。リックには意志があり、耳も聞こえている。両親はとても喜んだ。
 成長につれて喜怒哀楽を表すようになり、希望の陽が射した。さらに毎日言葉を教えるようにすると、頭の動きで「YES」「NO」を伝えられるようになった。
 その頃両親は、ある大学がヘッドギアをつけた頭を上下左右に動かすことで文字を入力できる装置の開発を研究していることを知った。これが完成すればコミュニケーションが取れるようになると思った両親は、早速この研究に5000ドルを寄付し、1973年に試作品が完成した。リック11歳の時だった。
 ヘッドギアを付けたリックが初めて入力したのは、「Go Bruins(行け、ブルーインズ)」だった。ブルーインズは地元ボストンのアイスホッケーチームで、ディックの大好きなチームだった。

 1976年、リックはウエストフィールドJr.ハイスクールに編入した。彼は首を使って言葉を入力する装置を使って毎日猛勉強した。1行を打つのに10分を費やす、途方も無い忍耐を要求するものだった。そうした努力の末、他の同年代の生徒と同じレベルであることをディックが学校側に認めさせたのだ。
 学校ではクラスメートに支えられ、普通の生徒と同じ学校で学ぶことができるようになった。だがその一方で、自分には何ができるのか、リックは考えるようになっていた。
 1977年、そんな彼の人生を変える出来事が起こった。地元大学のラクロスの選手が交通事故によって全身マヒになったことがきっかけだった。事故に遭った選手を応援するために8kmのチャリティマラソンが開催されることになり、リックはそれに参加したいとディックに伝えたのだ。
 ディックは何と答えて良いかわからなかった。車椅子を動かすこともできないリックがどうやって参加できるのか。

 しかしリックの、選手のために何かしてあげたいという強い気持ちを知って決心した。翌日からディックはトレーニングを開始した。38歳で運動不足のため中年太りが始まっていたディックが、アスリートのように肉体を鍛え始めたのだ。そして2週間後、ディックはリックの乗る車椅子を押してマラソンに出場した。それまでマラソン経験のなかったディックは、重量60kg以上の車椅子を押してひた走った。
 まずまずのタイムでゴールしたものの、翌日は筋肉痛で体を動かすことができなかった。その時リックは「走っている時、障害者だってことを忘れてたよ」とディックに伝えた。この言葉で筋肉痛は一気に吹き飛んだ。
 息子はハンディを解き放ってくれる何かを見つけたかもしれないと思った。そして、今度はフルマラソンに出よう、というリックの希望を叶えようと思った。リックは最後に「CAN」と入力した。「できるよね?」
 それからディックは、2年間かけて車椅子をフルマラソン用に軽量型に改造し、親子の仕事と学校が休みの毎週末に様々な都市で開催されるレースに出場した。

 父のチャレンジする姿を見たリックは、勉学にも励み名門ボストン大学に入学した。一方でフルマラソンを目指して体を鍛えた父の体は、すっかりアスリートの肉体になっていった。
 そして1981年、世界的にも有名なボストンマラソンの車椅子部門に参加を申し込んだ。しかし、自力で走れなければ参加できない規定になっており、ディックの必死の願いに参加は許されたものの、正式な出場者とは認定されなかった。
 だがその2年後のボストンマラソンでは、親子は車椅子部門ではなく一般の部にエントリーすることができた。実はその前の年に出場したあるマラソン大会で、ディックは車椅子を押しながら2時間45分という好タイムでゴールした。この記録はリックと同じ20代男子の出場資格に達していたため、正式参加が認められたのだ。
 こうして栄えあるボストンマラソンに参加した親子は、2時間53分で完走した。だがこれは奇跡の始まりでしかなかった。

 リックも自らの力で不可能を可能に変えた。猛勉強の末、1993年にボストン大学を卒業し、全身マヒを抱えた学生として初めて学位を取得したのだ。
 ディックの肉体も進化を続け、車椅子を押しながら2時間40分という自己タイムのベストを記録した。アスリートとしての評価が高まったディックには勲章が与えられた。水泳・自転車・マラソンの過酷なレース、トライアスロンレースの招待選手に選ばれたのだ。
 だが、招待されたのはディックだけだった。アスリートとして名誉ある招待だったが、ディックは息子と一緒でなければ意味がない、と出場を断った。
 父の意志は固かったが、リックは「僕トライアスロンに出たい」という。「CAN」。できるよ。
 ディックはほとんど泳げなかったのだが、それから5年後、世界一過酷なトライアスロンと言われるハワイ・アイアンマンレースに親子の姿があった。ディックは49歳になっていた。
 水泳では、ディックはリックの乗ったゴムボートを牽引しながら泳いだ。

 二人での参加を希望する親子に対し、大会側は水泳・自転車においても安全にリックを運べる装置を用意することを条件に参加を認めたため、正式にエントリーしたのだ。水泳3.9kmを泳ぎきると、改造した自転車にリックを乗せて自転車で180.2kmを走る。最後は車椅子を押しながら42.195kmのフルマラソンを走り抜き、世界一過酷なレースを完走したのだ。
 年齢を感じさせない体力で900以上のレースに出場したディックだったが、2003年2月23日、62歳で参加したハイアニス・ハーフマラソンでゴール直後に心筋梗塞を起こしてしまった。心臓に近い動脈が血栓により95%もふさがっていたのだ。
 幸い、処置が早かったために大事には至らなかったが、治療をした医師に「鍛えていなかったら50歳を待たずに心筋梗塞で亡くなっていたでしょう」と言われた。ディックは、自分が今生きているのはリックのお陰だと息子に伝えた。リックは「僕が生き甲斐を持てたのはパパのお陰さ」と答えた。

 現在66歳になるディックさんは、自分とリックは互いの人生を救い合ってきた、と話す。自分の体を動かすのは、息子のスピリットだ、と。親子の絆がある限り、不可能なことは何もないと信じており、数年前に軍を退職し今なおリックさんと共にレースに参加している。
 現在45歳のリックさんは、ボストン大学のコンピュータ研究所で障害者用補助器具の開発に取り組んでいる。
 ある年の父の日に、リックさんはディックさんにこんなメッセージを贈った。「僕が一番やりたいことは、パパを車椅子に座らせて一回でもいいから押してあげること」。不可能なんて、ない。CAN。やればできるさ。